題名のないファンタジー
序章 - 第0話

陽暦(ようれき)5423年13月28日、地下深くに眠る恐怖の王が地上に現れるだろう。
太陽は消え、永遠の闇が広がり、淀んだ霧と異臭が空間を覆いつくす。
人類の文化や遺産は邪悪な生命体によって支配され、平和な世界は失われる。」

乾いた色のスカートを細い手で払いながら目の前にいる女は語った。それは今まさに私が言わんとする事だった。だが女は呆れたような素振りでこう続けた。

女:
このお話はもう結構です。どうせ今日もあなたから押し付けがましく聞くのも辟易(へきえき)なので。
男:
うぐ…

神々しいはく製の像が教壇に設置された礼拝堂。
村に堂々とそびえる教会に私は日々の日課でお祈りを捧げるためこの場所に訪れていた。その度にこの教会の主であるシスターにこの話題を話している。
今の日常は見せかけの平和で、これから訪れる危機を警告していた。それは人類の存命が危ぶまれる事態だと私は予見していた。
今日と言う今日は彼女も流石に見かねたのか、そのフレーズを先に言われてしまった次第である。だが私は皮肉交じりに言ってみせた。

男:
…覚えて頂けたようで光栄です。偉大なるシスター、アンナ・スカーレット様。
アンナ:
ええ、覚えてしまったわ。本当かどうかも分からないお話を。…全く。

私は精一杯そのシスター、アンナ・スカーレット宣教師を称えたつもりだったが、あっけなく冷ややかな言葉で突き返されてしまう。

アンナ:
それに「偉大なるシスター」なんて言われても何も変わりません事をお忘れなく。いつも通りアンナでいいわ。

本当にこの人ときたら、おしとやかにしていればそれだけで気品に溢れる華やかな女性なのに。

男:
アンナさん、なぜです?なぜ私の話を信じて下さらないのか。
アンナ:
ここはオルディネスの村で唯一の祈りの場、セントピア聖堂。
毎日お祈りに来るのは私もとてもいい事だと思いますが、毎回その話題を出されても私の同意を得る事はできません。
別に私はあなたの事が嫌いというわけではありませんが、あなたのそのに関しては内容が荒唐無稽でとても信じ難いものです。
男:
しかしもう20年ですよ!5420年だ!もう時間がない。このまま何もしなければ我々は…。
アンナ:
落ち着いて。冷静になってください。
私以外の方にその話はされましたか?どなたか信じてくれた方がいましたか?
あなたはその予言の事を本気で信じていらっしゃるというのですか?…アンディ・マルコム・バーネットさん。

アンディ・マルコム・バーネットとは私の名前である。その名を呼ぶ者は極めて少ない。
私は事情がありあまり外界へ姿を見せる事なく村の辺境でひっそりと生活を営んでいるため、そもそも私の事を知っている人が少ないのだ。アンナはそんな数少ない私を知っている人間の一人だった。

アンディ:
いや…その…
アンナ:
あら、偉大なる予言者と付け加えたほうが良くて?ご無礼をお許しください。

私が言葉に詰まっていると彼女は付け加えた。もちろん雑言だ。完全にさきほどのしっぺ返しを食らった形であしらわれている。
他の人に信じてもらえたか、だと?それは…

アンディ:
予言ではありません!これは計画です!それにこの話を受け入れてくれている人だってちゃんといますよ?
アンナ:
おや、それは失言でしたね。
アンディ:
実は今日妙な胸騒ぎがしていましてね。昨晩は寝つけなかった。今も妙に空気が張り詰めている…そんな気がして…。
アンナ:
…そうでしょうか?
アンディ:
少なくとも私はそう感じています…。ですから今日は息子を山奥の木こりの家まで預けてきたのです。
アンナ:
山奥の…?そうなのですね。あの場所と言えば、お褒めの高い魔導師様が住まわれているとかねがね聞いております。アンディさんとも仲がよろしいとか。

なんだ…あの人の事は知っているのか。それなら話は早い。
この村、オルディネスの辺境の地には一軒の「木こりの家」がある。家は古びた木造で、周囲は深い森に囲まれている。そこには一人の木こりのご老輩と老魔法使いが住んでおり、その魔法使いとアンディは長きに渡って親交があった。
アンディは半年ほど前に共に暮らしている伴侶との間に息子を授かっていて、まだ1才にも満たない息子を木こりの家へ連れて行っていた。

アンディ:
魔導師と言うか…彼は先代から続く偉大な賢者の末裔でして、魔法使いのクラスでは他に敵うものはいないとされるくらいの名家です。
もしこの村に何かあっても、彼ならきっと守り抜いてくれるはずです。
アンナ:
もしやこのお話を受け入れてもらえた方というのはその方の事かしら?
アンディ:
そうですよ。彼だけです、この話を信じてくれているのは。だから今日、まだ小さい息子を(かくま)ってもらっているのです。
アンナ:
確かその方のお名前は……
アンディ:
ミノスと言います。ミノス・ストーンハウス公爵。彼の魔法は群を抜いて素晴らしい。老いていてもその叡智(えいち)は確かなものです。王家に伝わる伝承「モルジョガ」の英雄の末裔という話もありますし。

【モルジョガ】は大国の図書館に眠っていた叙事詩を別の学者が伝承として綴ったもの。
これに登場する多くの英雄・血族は失われているか既に滅亡しており、ミノスはその中でも生きた伝説として一部の人から崇められていた。

アンナ:
そうですか。信頼できる方がいるというのは良い事ですね。
アンディ:
ええ。…ん?それはどういう意味でしょう…?
アンナ:
そのままの意味ですわ。

シスター・アンナはそういうと聖母のような素敵な笑みを浮かべた。なんと美人なのだろうこの人は。私よりも歳が若いのもそう思った理由としてあるのかもしれない。

アンナ:
しかしなぜまた今日、御令息をそこに?
アンディ:
途轍もなく嫌な予感がするのです。
何なのでしょうか…、恐ろしい何かが迫っているような気が――

私がアンナの疑問に答えたその時、何か空気を貫くような違和感を瞬時に感じ取った。
不安がより大きくなり、鼓動が早くなっていくのを感じる。しかし周囲に視線をやり、窓の外を見たが不自然なものは何もない。
他人とは違う敏感で研ぎ澄まされたような感覚が私には備わっていた。今まで36年間生きてきてこの感覚が走った時は必ず何か不吉な事が起きる。今でも印象に残っている出来事と言えば、隣国によって村の資源を不当に買いたたかれた時、この能力でその謀略を解き明かした事だろう。

アンナ:
そういえば最近隣国で敵襲があったと、昨日この村を訪れた商人の方がおっしゃられておりました。
あまり治安が良くないのではないかしら。

私は彼女の言葉が聞こえていたが、返答するまでの心の余裕がなくなっていた。
ここは教会、私は今礼拝堂で参拝用の椅子に座っている。目の前にいるシスター・アンナがこちらを向いて、手元の経典らしき分厚い書物を読んでいる。私は少しでも平静を取り戻そうと今置かれている状況の分析をする事にした。

……………。
アンナが最後に発した言葉が室内に響いてから1分くらい経っただろうか…。今いる礼拝堂は私と彼女以外誰もいない。緊迫した空気が、張り詰めた空気が、何とも言えない緊張感に変換されて私の心を支配していく。
外で風が吹き、木々が揺れる音がする。その音が次第に大きくなっていくように感じた。この木々たちのざわめく声が酷く騒々しく、私の心をかき乱す。私はだんだんとその緊張感が恐怖に変わっている事に気付き始めていた。

アンディ:
…出る。

長かった沈黙を破って無理矢理喉の奥から絞り出せた言葉。私はその場にジッとしている事ができず、教会を後にしようとする。

アンナ:
分かりました。お疲れ様です。また―――

彼女がそこまで言うとそれと同時に礼拝堂の正面入り口の木製のドアが開く音がした。ギギィ…と軋むような独特な木製のドアの音。
私はその音さえも無機質な生活音ではないかと一瞬考えるほど、神経が研ぎ澄まされていた。そして数秒後にようやくドアの音である事を認識した私は、そちらの方面をさっと見た。
そこには何者かが2人立っている。ドアから差し込む日の光が逆光となり、2人のシルエットが長い影になってこちらに向かって伸びていて、その影の形から重厚な鎧をまとっている事が読み取れた。

私はその影が伸びている2人の顔をなんとか認識しようと試みる。
その2人の顔は…人間とは思えない異形の表情だった。ゴツゴツした固い皮膚が何枚にも重なったような見た事のない顔、鋭い視線が私に降り注いでいた。
だが彼らは熊でもないし、猪でもない。2本の脚で確かにそこに立っている。先ほどから感じていた妙な感覚のせいで視覚がおかしくなっているのか?そう考えて彼らの顔を見ても、やはりそれらは人間の顔ではない。何者…?私の脳裏に得体の知れない不安がのしかかる。

アンナ:
ご用件は何でございましょう…?

私はそのセリフをアンナが言った言葉だと認識するのに時間が掛かった。なぜならそれは凛とした彼女から放たれる自信に満ち溢れたいつものあの声…では明らかにない、籠ったような声だったからだ。
アンナは礼拝堂の入り口に立っているその2人を見たまま動けなくなっていた。
入り口に立っているその2人…いや、2体の異形の姿はこちらに向かってこう言い放った。

異形:
ラグバイア・ドグマの刻印を渡してもらう。

人間とは思えないおぞましいトーンの声…。やはり彼らは人間ではなかった。
ラグバイア・ドグマ………?私はそれを知らなかった。

アンディ:
そのような物はここにはない。

私は残った体力を振り絞り平静を装いながらドスの効いた重い声でそう言い放った。すると彼らは武装した自らの装甲から鋭い武器を手に収め、再びその恐ろしい声を出した。

異形:
(とぼ)けるな。従わない者はこの場で処刑だ。村は全て焼き払う。

私はその言葉を聞いた瞬間、自分が置かれている立場を悟った。得体の知れない胸が高鳴る理由…、それはまさしく今私自身の生命の危機である事を。
すると私の真後ろから何かの高い音が鳴り響き、部屋全体が色味掛かった光に包まれる。
その瞬間、外で鳥の群れが一斉にワサワサと大量に飛び立つ音がした。

そこからは一瞬の出来事だった。
瞬きしたその一瞬で私は凄まじい激痛を身体に感じ、普段は見る事のない礼拝堂の天井が視界に映った。意識が遠のいていき、遠くのほうで悲鳴がこだましている。
やがて激痛がなくなり、そのまま永い眠りに誘われていった。

2つの異形によって、私は教会の中で息を引き取った。
人々を救うために、平穏な日々の祈りを捧げるはずの礼拝堂。教会で捧げられた多くの祈りや想いは、真っ赤な真逆の象徴によって静かな悲しみさえ残していた。


木こりの家のすぐ外で大賢者ミノスは大けがをし、その場にしゃがみ込み苦痛で顔をゆがめていた。
オルディネスの村の集落部分は多く火を放たれ焼き払われた。遠くのほうで黒い煙がもくもくと躊躇うことなく上がる。山火事災害を思わせる量の凄まじい量の煙が見て取れる。

オルディネスの村の大半を破壊した異形たちは、ミノスが住んでいる木こりの家を襲撃した。奇襲だった。あっという間に異形たちの形勢になっている。

ミノス:
お前たち…すまない…

すぐ近くに魔法胴衣をまとった人間が数人倒れている。ミノスの弟子たちだろう。その上を踏みつけていきながら、異形たちは木こりの家へと入ろうとしていた。

異形:
長い年月を経て、魔術の力も退化したものだな。所詮、人間などではそんなもの。今楽にしてやる。

すると異形はするどい爪をミノスの顎に当てる。

ミノス:
紋章の子は…お前たちの元に…帰らない。

ミノスが微かに聞こえる程度の声で言う。そして、

ミノス:
「天よ!我が(しもべ)の中に宿りし強き御魂にくみし給うものなら、我、未来永劫の時の中で無垢なる命、守り給え!」

ミノスは謎の言葉で呪文を数え、(ひざまず)いた格好のまま、手のひらを木こりの家へ向けて祈り捧げた。その瞬間、異形の爪がミノスの身体を貫く。数秒経ってミノスは意識が途絶え、その場に倒れ込んでしまった。
すると間もなくして木こりの家の屋根部分から光の柱が立ち登り、凄まじい光量の柱が上昇していくのが見えた。その柱を包むように宙に巨大な魔法陣が浮かび上がっている。
その光景を呆然と見上げる数体の異形たち。
その後、光の柱は天に向かって吸い込まれていき、魔法陣も柱へと集束して消えていった。


その後、異形たちはボロボロになった木こりの家の中を調べたが、そこにはもう何も残っていなかった。
彼らが捜していたラグバイア・ドグマの正体、アンディ・マルコムの息子カリオンはミノスの魔法によって光の柱に誘われその姿を見せる事なくこの世界から消えたのだった。

陽暦5420年7月某日の事であった。