西暦2022年11月某日。
青年:
もうこんな時間か…
スマートフォンで時間を確認するとそこに「22:56」の文字。前に時間を確認した時はまだ夜9時前くらいだったはずだ。何をせずとも、時間だけは一定速度で進行している事を痛感しながら青年は…俺は深くため息をついた。
腕を組む格好で置いている銀色の手すりの隙間から、下を見ると生い茂った大きな街路樹を何人か人が歩いていくのが見える。この遅い時間にも関わらず、人通りが多い公園の並木通りだ。
スーツを着てカバンを手に持った40代くらいの男が見える。片手を耳に当て、何かを喋りながら早歩きで通りを駆け抜けていく。遅くまで仕事をしていたか、はたまた終電か。通話の先にいる相手はきっと彼の妻なのだろう。…そんなどうでもいい他人の事まで考察してしまっているあたり、俺は時間を持て余していた。
ここで何をしているか?気になるやつもいるだろう。俺はただその場で、何の目的もなく静寂に包まれた夜の港を眺めていた。なんとなく、汚れた心が洗われていくかのような気分。こんな何の変哲もない風景を眺めるこの優雅なひと時がたまらなく好きだ。
海に面した場所にある大型モールとすぐそこの交差点までを繋いでいる連絡路、この歩道橋の上からこんな辺鄙な観察をしている奴なんてそうはいないだろう。それを2時間も続けていた。
だが、このまま真夜中までここにいるわけにはいかない。喉が渇いた。コンビニでも寄って帰るか…。
俺はそう思い立ち、片手に持っていたスマートフォンを胸ポケットにしまい込むとようやくその場から動き出した。
空はすっかり真っ暗で、周りの街灯と街の店舗の照明だけで風景を描いている夜の遊歩道を歩く。公園の通りは若いカップルや高校生たちがひしめき合い、首都高速では光を放つ物体が互い違いに走行していく。
ベイサイドにひしめき合うネオンの輝きが一段と美しい横浜の夜の街だ。
俺は先ほどまで居た港地区から電車で移動して、自宅のアパートに向かって歩を進めていた。車通りが多いメインストリートからほど近い少し坂を上った場所に自宅がある。街中だが人通りはさほど多くない閑静な場所。そう、俺はこの街で暮らしていた。
その時、少し離れた場所から車のクラクションが複数鳴っているのに気が付いた。しばらくするとその方角から複数の男から追いかけられ逃げている女の子の姿が目に映る。
彼女は俺よりも若い女子高生に見える。両手でカバンを抱きしめて周囲の人々をかき分けながら全力で走って逃げていた。それを追うのは明らかに年上の男性グループ。走っていくのは…5人か、6人か。
周囲は完全に飲み屋街で、人目のつく場所。女の子は大通りから狭い通りへと走っていき、路地の向きへと突き進んでいく。男たちはもう彼女の目前にまで迫っていた。
何かのトラブルか…くだらない。都会にはざらにある光景だ。警察官と口論になっている人、車が絡む事故現場、唐突に街中に響き渡る緊急車両のサイレン音…。それもまたこの街、横浜の繁華街には当たり前のように根付いていた。
それに他人の事に首を突っ込むほど、俺はお人よしじゃない。面倒事は見て見ぬふり。関わらないのが一番だ。罪悪感よりも、身の安全。それが俺のモットーだった。
俺はそう思って、その集団が視界から消えるのをじっと待った………
待ったはずなのに………
なぜだろう………
心の奥底で、俺の衝動を駆る何かが目を覚ましていた。
青年:
何やってるんだ、お前ら?
辿り付いたのは、ビルの狭間にある室外機が密集した路地裏。俺はそこで女の子を襲っていたグループに声を掛けてしまっていた。
「誰だ、あいつ」
「知らねぇよ。ほっとけ。」
男たちは一度こちらを振り返ったが、そのまままた女の子のほうへ視線を戻すと、更に乱暴をエスカレートさせていく。
女の子の抵抗する悲鳴が路地に響く。だが彼女は力ずくで押さえつけられ、彼らから逃れる事ができない。
相手は6人。このままやりあえば不利な状況…。見かねた俺はポケットからスマートフォンを取り出し、「110」とダイヤルナンバーを押そうとした…その時だった。
「…殺す」
グループの中の一人の男がこちらに向かって歩いてきている。その男の片手には鉄パイプが握られており、俺よりも一回り体格が大きい。すると次の瞬間、
「死ねぇ!オラァ!!」
男は俺に向かって持っていた鉄パイプを振りかざして飛びかかってきた。俺はその場で凍り付いてしまう…
…しかしそれは目の前に迫っている恐怖によってではなかった。俺にはその言葉に聞き覚えがあった。あの忌まわしき日々が脳裏に蘇ってくる…
「この悪魔め!死ね!!」
まだ幼かった頃、俺は児童保護施設で周囲から蔑まれ疎まれていた。
助けてくれる者などいない。孤独以上に辛かった日々。
毎日誰かに蹴とばされ、身の回りの私物を壊された。
こんな生活、耐えられない…辛い…悲しい…怖い…
もうあんな思いは二度と………
その時、青年の様子が一変した。男が振りかざした鉄パイプは、青年の右手でしっかりと受け止められている。
殴りかかった男は唐突に苦痛の呻き声をあげ、ビルの壁に背中から激突する。いつの間にか鉄パイプを奪っていた青年は、その鉄パイプを力なく離す。コンクリートに転がる金属のカランカランという音が鳴ると、犯行に及んでいた他の男たちの視線が一斉に青年に向けられる。
「シンヤ!?」
「なんだてめぇ!」
グループの男が仲間の名前を呼びかけたが、青年の背後で男が一人地面にうずくまっている。
男たちのターゲットが徐々に青年に向き始め、恐喝するような態度で威嚇を繰り返す男たち。
だが青年はそんな男たちの威勢など無視して凄まじい形相で歩いて近寄っていく。
その時、それを見たグループの一人の男が青年の異変に気が付いた。
「ホリ!やめろ!」
男が叫ぶ。次の瞬間、青年の目つきが鬼のように鋭く輝き、男たちの身体が突然四方へ散るように吹き飛んでゆく!
男たちが周辺の物に激しく当たって、大きな衝撃音が路地裏に響く。地面に転がり落ちた男たちは苦痛に悶絶している。それはあまりに一瞬の出来事で、何が起きたのか理解できる者はそこにはいなかった。
青年の目つきはまるで獲物を狩る獣のように殺気に満ちていた。そこにいた全員、血の気が引いていくように戦慄する。
男たちが痛みに顔を歪めて次々にその場から去ってゆく。一体何が起きたというのか。
男たちがその場から消えた後、青年は路地裏の奥で制服を乱された女の子に目を向ける。そして彼女もまた青年に心底怯えながら、悲鳴を上げその場から逃げるように去って行ってしまう。
正気に戻った俺は、路地裏で後ろに振り返ると、襲われていた女の子が焦燥しきって逃げ惑っている姿が一瞬見えた。だが彼女はすぐ視界から消えた。
今、何が起きていた?俺は薄らと男たちを追い払ったような気がする程度にしか記憶が残っていなかった。
こういうシーンはよくアニメや映画で見た事がある。
悪人に捉われたヒロインを救った主人公が英雄のような扱いでヒーローになる。まさにあの光景…。
そうなるんじゃないのか?
だがそんなものは妄想でしかない。ヒロインに逃げられるヒーローなんて、もはやヒーローなんかじゃない。現実は非情にも、俺の心を握りつぶしていた。
俺は路地の入り口に見えるカーブミラーに映っていた自転車をジッと見つめたまま、心までも暗闇に染まる。
路地裏に取り残された俺は、ヒーローにはなれなかった。