この世界で生きていくという事、それは楽しい時間もあれば退屈な時間もある。時の流れに身をまかせ日々の暮らしを過ごしていく中で、変わらず巡りゆく人との交流と社会との接触。
仕事をして、また休んで、そのサイクルの繰り返しは本来の意義を考えると実に不純だと思う。それでもまた月曜日がやってきて、俺はまた労働に身を徹する。
職場に着くといつも通りに交わされる味気ない挨拶。就業開始時刻になると鳴るチャイム音と共に始まるいつも通りの安全朝礼。そしていつも通りの加工場での作業が始まる。
俺の仕事は基本金属の加工や機械などの設備のメンテナンスなどが主な内容で、それを淡々とこなせるようになっていた。
入社したての頃は、それぞれのタスクを覚える事に必死だったがわりと難なくこなしてきた。同時期に入社した他の社員と比べても群を抜いて要領がよいと褒められていて、俺はそれが少し誇らしくも思っていた。
夕方になり、会社の門をくぐるとそこには普段の光景。
自転車をゆっくりと漕いでいく男性、母親と手をつないで歩く少女、踏切の前で多くの人が待つ中、颯爽と駆け抜けていく電車…。平和な日常の景色が広がり、そして今日も一日が終わる。
家路につくともう晩ごはんを食べ、風呂に入り、動画サイトで時間を持て余して、寝床に就くという決まったデイリーライフサイクルだ。
こうして俺の日常はただただ何の変哲もないフラットな人生を進む…はずなのに、毎晩見る気味の悪い夢だけが、俺の心に影を落としていた。
ただその夢は毎日見ているわけではなかったが、最近は頻度が増えてきている。何かを訴えかけるようにも感じていたし、その夢を見る日が決まって、雫や諒、知人に会った日に多い気がする…。
それがどういう意味を成しているのか俺にはさっぱり分からなかったが、人との触れ合う機会に応じて、俺の心に揺さぶりを掛けるかのようにその魔物が夢の中に現れていた。
そしてある夜の事。俺は再び悪夢に襲われる事になる。それはかつてないほど迫真に満ちた夢だった。
睡魔に襲われたかと思えば、薄暗い光の中に異形の影が浮かび上がり、その恐怖感が全身を包み込む。夢の中で俺は、どこか見覚えのある風景の中を逃げ回っていた。
「どこへ行くんだ…」
どこからともなく聞こえてくる籠ったような低い声。どこから聞こえているのか分からない。
周囲は家がちらほら散見されるような都会から外れた郊外の雰囲気で、俺は左右に大きな木が生い茂る丘の上。周りは夕方というか、どの時間帯か分からない薄暗い光に満ちていて少し視界が悪い。茜色のような…強い黄色じみた赤い景色で、危険を想起してしまうような色の光。
いつもならもっと長い距離走れるはずなのに、妙に足取りが重い。まるで何者かに脚を引っ張られているかのようで思うように走れなかった。目に見えない恐怖がそんな焦りを、俺に疲れという形でもたらしているのだろうか…。
しばらく進んで鉄道の高架橋のすぐ下をくぐり抜けるように俺は走り抜けた。その時後ろを振り返ると、遠くのほうに見知らぬ人が数人、同じように逃げていくのが見えた。
俺はその人たちを発見し、少し安堵する。それはその場にいるのが自分独りだけではないというたったそれだけの理由だった。それだけ、今の俺は怯え切っていた。だが、その存在はじわじわと俺に近寄ってくる。
「フッハッハッハ…!」
突如けたたましく響き渡るおぞましい笑い声。俺はたまらずその場に塞ぎ込んで両手で頭を隠すように草の繁みに身を寄せた。
視界は真っ暗。俺は必死になってその迫りくる何かから身を隠そうと全力で蹲ってみせた。
どこだ…。どこにいる…。一体誰なんだ…。
俺は得体の知れないその声のせいで心が恐怖心でいっぱいになっていく。
………。
……。
…。
しばらくそのままの格好でいた俺は意を決して恐る恐る頭を上げる。すると、周りの風景が変わっている事にすぐ気が付いた。
そこは、巨大なドーム型の建造物の中だった。天井は遥か高くそびえており、消灯したままのスポットライトが点々としている。天窓がずらりと敷き詰められていて、夜空が伺える。見た事もないような数の星がきらめいていた。
俺がそんな景色を見ていると、大きな広場の隅っこのほうになにやら蠢くものが見えた。
それは複数ポツンポツンと現れ、ゆっくりと俺のいる広場の中央へ向かってきているのが分かった。その正体は明らかに人間ではない、全身ただれた肌、腐ったような肉体の模型のようだった。それはまさしくホラー映画に出てくるゾンビのようであった。
俺はその集団を見回すようにきょろきょろと辺りを観察していく。するとまた恐ろしい声がドームに響き渡る。
「我の言う事が聞こえないのか?こっちを向け」
俺にはその言葉が正確に聞き取れなかった。あまりにも枯れはてた声で、わずかにしか聞こえない。しかしそれでも俺の恐怖を引き出すには十分すぎる迫力だ。俺はたまらず後ずさりし、そこに立っている事すらやっとの状態だった。
そして決定的とも言えるその声を、ついに俺は捉えてしまう。
「お前だよ。お前!」
突然耳元で叫ばれ、俺は心臓が飛び出るかと思うくらいびっくりする。あまりにもはっきりと聞こえすぎたおぞましい声の方角を…、後ろを振り返る。するとそこにこの世の者とは思えない怪獣のような巨大な顔が浮かび上がっている!俺は思わず大声で叫んだ…
直樹:
うわあああああ!!
けたたましく俺の声が部屋中に反響する。
布団から飛び上がった俺はその場で放心状態になっていた。ぶるぶると震えが止まらず、信じられないほどの汗を身体中に掻いている。
…夢?今のが?
あんなにも鮮明な恐怖の映像を見たのは流石に初めてかもしれない…。
もう限界だ…。俺は日に日につのるその悪夢に耐えられなくなってきていた。なんでこんな夢を見る?何がいけないんだ…?なぜ俺は………。
布団の上で身体を起こし、頭を抱えながら俺はさきほど見たあの映像を脳裏から振り払おうとしたが、その前に朝日が俺を照らすのだった。
数日後。
心療内科の看板がかかる医院。浮かない顔で建屋のエントランスから退出すると、どんよりとした曇り空が上方いっぱいに広がっている。
俺はその日、午前中だけ仕事をして昼から心療内科で診察してもらっていた。だがそれは気休めにしかならなかった。そして医院へ訪れる前から俺はそれに薄々気づいていた。
仕方ない。今日はもう帰るか…。俺は乗ってきたバイクにまたがり、車体を走らせる。
だがどうも気分が乗らず途中で降り、手押しでいつも通る河川敷の辺りをトボトボと歩く。
道端に植えられた木々は全て葉を落とし、枝となっていた冬の初頭。季節は12月を数えていた。
家へ続く道、所有している大型バイクを手で押しながらゆっくりと河川敷の丘の上を歩く。時折吹きつける北風が冷たい。暖かい飲み物が飲みたいなと、率直に思った。
………しばらく歩いていると突如前方から声が聞こえてきた。
「セラフィム」
俺はその見知らぬ声が自分へ掛けられている事に気づき、押しているバイクを止め目の前にいた中年くらいの男性に目を向けた。
男性の身なりは…肩にかかるほど伸びた髪、整った顔立ち。おしゃれなジャケットを羽織ったその姿は、一見普通の会社員といった感じだったが、俺はその男からただならぬ気配を感じ取った。
しばらくその男と目があったまま、お互いに硬直状態が続く。
その後、俺は軽く会釈をして再びバイクを押しその男の隣を通り抜けようとする。
「私を知っているか」
その男が呟く。いや、知らない。全く面識がなく、身に覚えもなかった。
直樹:
すみません。俺はあなたを知らないし、きっと人違いです。
俺は歩きながらそういって、男から遠ざかるように歩いていく。するとまたその男が俺に向かってこう言った。
「あの怪物は、お前を探している」
俺はその言葉を聞いた途端、歩く意思が消え去りその場で固まる。
今なんと言った?
俺を探しているだと…?
あの怪物ってまさかプエブラモンスターの事だろうか…?
直樹:
あなたは誰ですか?
俺はその男に尋ねた。するとさっきまでかなり離れた背後に居たはずの男はなぜか俺の目の前に回り込んでいる。俺は後ろに向けた顔を正面に向け直した。
そして男は真剣な眼差しをこちらに向けたまま、こんな謎めいたセリフを言い放ったのだった…。
「かつて、神に生み出された者。そして今は、神を…裏切った者だ」